製造業の競争力は、設備や技術だけでなく、熟練技能者が持つ暗黙知と現場力に大きく依存しています。しかし、災害や危機発生時には、従業員の安全確保、通勤困難、キーパーソンの不在など、人的リソースに関する深刻な課題が事業継続を阻害します。本稿では、さいたま市以南、東京都内、神奈川県内の中小製造業を対象に、「人に依存しすぎない、しかし人を大切にする」事業継続体制の構築方法を解説します。製造技能の可視化と継承、災害時の安否確認から復旧要員の段階的確保、多能工化による代替要員育成、協力会社との相互支援体制、そして労働法規を遵守した災害時労務管理まで、人的リソースの強靭性を高める包括的戦略を提供します。第4回のBIA結果と連動させることで、重要業務の継続に必要な人員配置を最適化し、補助金審査でも高評価を得られる実効性の高い計画書記載につなげます。
製造業における人的リソースリスクの本質
技能の属人化がもたらす事業継続リスク
製造業の現場では、「この工程は○○さんしかできない」という属人化が珍しくありません。しかし、この状況は事業継続の観点から極めて危険な「単一障害点(SPOF)」となります。
暗黙知への過度な依存:
NC旋盤の微妙な調整、溶接の最適条件判断、品質異常の早期発見など、マニュアル化が困難な暗黙知が製造現場には数多く存在します。これらの技能を持つベテラン作業者が災害により出社できない場合、代替要員では同等の品質や生産性を確保できず、顧客への納品遅延や品質問題が発生します。
技能継承の停滞:
中小製造業の多くで、ベテラン技能者の高齢化と若手人材不足により、技能継承が計画的に進んでいません。災害時だけでなく、定年退職や突然の離職によっても、重要技能が失われるリスクが常に存在しています。
首都圏特有の通勤・参集困難リスク
関東圏の製造業は、従業員の通勤に鉄道を中心とした公共交通機関に大きく依存しており、災害時の交通機能麻痺が深刻な影響を及ぼします。
首都直下地震での想定影響:
首都直下地震(震度6強)が発生した場合、鉄道各社の運転再開には数日から1週間以上を要する可能性があります。内閣府の被害想定では、発災直後に約650万人が帰宅困難者となり、従業員の50-70%が出社不能となる事態が想定されています。
従業員居住地の地理的分散:
関東圏の製造業では、従業員が東京・埼玉・神奈川・千葉の広範囲に居住しているケースが多く、災害の種類や発生場所により出社可能率が大きく変動します。遠距離通勤者が多い中小製造業では、発災から3日間は「近隣居住者のみ」で操業せざるを得ない状況を覚悟する必要があります。
製造技能の可視化と戦略的継承
技能マトリックスによる技能保有状況の体系的把握
重要業務に必要な技能を明確化し、各従業員の習得状況を一覧表で可視化します。
技能マトリックスの構成要素:
縦軸:従業員リスト
- 氏名、所属部門、勤続年数、年齢
- 主担当業務、副担当業務
- 保有資格(技能検定、特別教育、免許等)
横軸:必要技能リスト
- 設備操作技能(NC旋盤、マシニングセンター、溶接機等)
- 専門技術(CAD/CAM操作、品質検査、治工具設計等)
- 管理業務(生産計画、工程管理、安全管理等)
習熟度レベルの5段階定義:
- レベル5(指導者): 他者への指導が可能、トラブル対応・改善提案ができる
- レベル4(熟練者): 単独で標準作業を完遂、品質を安定的に確保できる
- レベル3(中堅者): 標準作業は可能だが、難易度の高い作業は支援が必要
- レベル2(初級者): 基本作業は可能だが、常時指導・確認が必要
- レベル1(未経験): 当該技能の訓練を受けていない
技能マトリックス分析の実施例:
NC旋盤加工(主力製品A部品)について技能マトリックスを作成した結果:
- レベル5(指導者):1名(58歳、勤続35年)
- レベル4(熟練者):1名(45歳、勤続20年)
- レベル3(中堅者):2名(32歳、28歳)
- レベル2(初級者):1名(24歳)
リスク評価:
指導者1名への依存度が極めて高く、この人物の長期不在により、品質維持と生産効率に深刻な影響が発生するリスクがあります。
計画的技能継承プログラムの構築
段階的育成計画の設計:
- 第1段階(3ヶ月): 基本操作習得、安全作業の徹底(レベル1→2)
- 第2段階(6ヶ月): 標準作業の独り立ち、品質基準の理解(レベル2→3)
- 第3段階(1年): 難易度の高い作業習得、トラブル対応訓練(レベル3→4)
- 第4段階(2年以上): 改善提案、後進指導、複数工程対応(レベル4→5)
技能の見える化と標準化:
暗黙知をできる限り形式知化し、技能継承を加速します。
- 動画マニュアルの活用: ベテラン作業者の作業をスマートフォンで撮影し、カン・コツを言語化したテロップを入れる簡易的な動画マニュアルを作成
- 標準作業手順書の整備: 写真・図解を多用した視覚的な手順書作成
- 失敗事例集の共有: 過去のトラブル事例と対応方法をデータベース化
多能工化による代替要員確保:
特定の工程・設備に固定せず、計画的に複数工程を経験させることで、柔軟な人員配置を可能にします。
- 第1段階: 主担当工程で完全習熟(レベル4以上)
- 第2段階: 前後工程の基本習得(レベル2-3)
- 第3段階: 関連工程の複数習得(レベル3以上を2-3工程)
災害時の安否確認と参集体制の構築
安否確認システムの実効性確保
安否確認手段の多重化:
災害時は通信インフラも被災するため、複数の連絡手段を準備します。
主要連絡手段の優先順位:
- 安否確認システム(クラウド型): 自動配信・自動集計機能があり最も確実
- ビジネスチャット(LINE WORKS, Slack等): データ通信は通話より繋がりやすい
- SNSグループ(LINE等): 普及率が高く使い慣れている
- 災害用伝言ダイヤル(171): 最終手段として周知徹底
安否確認の実施手順:
STEP1:自動発報(震度5強以上で自動)
安否確認システムから全従業員へ自動的にメール・SMSを送信し、安否・被災状況・出社可否の回答を求めます。
STEP2:回答状況の集計(発災後2時間以内)
各部門責任者が回答状況を確認し、未回答者リストを作成します。
STEP3:未回答者への個別連絡(発災後4時間以内)
未回答者に対し、電話・SNS等の代替手段で個別に連絡し、安否を確認します。
STEP4:全社集計と経営層報告(発災後6時間以内)
全従業員の安否状況、被災状況、出社可能人数を集計し、経営層へ報告します。
段階的参集計画の策定
従業員の居住地と交通手段を考慮し、災害の種類・規模に応じた現実的な参集計画を策定します。
フェーズごとの要員計画:
フェーズ1:発災直後~24時間(緊急対応期)
- 確保要員: 工場内にいた従業員、徒歩・自転車で参集可能な近隣居住者(工場から5km以内)
- 優先業務: 安否確認、負傷者救護、設備の緊急停止・安全確認、二次災害防止
フェーズ2:24時間~72時間(初動復旧期)
- 確保要員: 近隣居住者、主要幹部(バイク等で参集)
- 優先業務: 被害状況査定、片付け・清掃、在庫確認、顧客への状況報告
フェーズ3:72時間~1週間(暫定操業期)
- 確保要員: 公共交通機関復旧に伴い出社可能な従業員(全体の50-70%)
- 優先業務: ボトルネック工程の優先稼働、代替生産の開始、出荷業務再開
出社基準と自宅待機基準の明文化:
出社要請の基本方針:
- 自宅および通勤経路に、自治体等から「避難指示」「警戒レベル4以上」が発令されていないこと
- 主要公共交通機関が概ね運行していること
- 家族の安全確保が完了していること
自宅待機とみなす基準:
- 自宅周辺が「警戒レベル4以上」の避難指示エリアに含まれる
- 鉄道が全面運休し、代替手段でも2時間以上を要する
- 家族の安全確保のため、外出困難と本人が判断した場合
協力会社・人材派遣会社との災害時応援体制
協力会社との相互支援協定
代替生産協力協定の締結:
同業他社や関連企業との間で、災害時の相互支援協定を締結し、要員・設備の相互融通を可能にします。
協定内容の具体例:
- 被災企業の製品を代替生産する協力体制
- 技能者の相互派遣による復旧支援
- 設備・治工具の一時貸与
- 共同での部品・原材料調達
産業集積地域でのネットワーク活用:
大田区、川口・蕨エリア、相模原市などの産業集積地域では、地域の製造業ネットワークを活用した相互支援体制が効果的です。
OB・OGの活用と人材派遣会社との連携
退職者リストの活用:
定年退職した熟練技能者をリストアップし、緊急時に期間限定で支援を要請できる体制を整えます。彼らは自社の設備や文化を熟知しており、即戦力となります。
人材派遣会社との災害時契約:
平時から取引のある派遣会社と、災害時の優先派遣に関する覚書を交わし、必要人数、職種、派遣条件を明確化します。
災害時労務管理と法的コンプライアンス
労働安全衛生の最優先
災害復旧時においても、従業員の安全確保は最優先事項です。
安全配慮義務の徹底:
余震が続く中での無理な出社命令や危険な作業は、安全配慮義務違反となります。出社判断は「従業員の安全第一」を原則とし、無理な出社を強要しないことを明文化します。
災害時の労働条件と法的要件
災害時の労働時間特例:
災害復旧のためにやむを得ず法定労働時間を超えて働かせる必要がある場合、労働基準監督署へ「災害等による臨時の必要がある場合の時間外労働・休日労働の許可申請書(労基法第33条)」を提出することで、36協定の限度時間を超えた労働が可能になります(事後提出も可)。
休業手当の取り扱い:
地震や水害などの不可抗力(天災事変)により操業停止し、従業員を休ませる場合は、原則として休業手当(平均賃金の60%以上)の支払い義務はありません。しかし、従業員の生活維持と雇用確保のため、可能な限り支払う、あるいは国の雇用調整助成金(災害特例)を活用する方針を定めておくことが望ましいです。
事業継続力強化計画書への具体的記載方法
技能マトリックスと代替要員の記載例
「主力製品Aの生産に必要なNC旋盤加工技能について、技能マトリックスを作成し、レベル4以上の熟練者が2名、レベル3の中堅者が2名在籍していることを確認した。現状では指導者レベルの技能者1名への依存度が高いため、レベル4熟練者の指導者レベルへの育成を今年度中に完了する。また、レベル3中堅者2名についても、段階的にレベル4への育成を進め、2年以内に代替要員体制を確立する。」
安否確認と参集計画の記載例
「全従業員に対し安否確認システムを導入し、震度5強以上の地震発生時に自動的にメール・SMSを送信する体制を構築した。年2回の訓練を実施し、回答率90%以上を維持する。従業員の居住地を分析した結果、工場から5km以内に居住する従業員が12名(全体の25%)おり、これらを初動対応要員として指定した。首都直下地震により公共交通機関が停止した場合でも、発災後6時間以内に初動対応要員12名の参集が可能であり、設備の安全確認と被害状況調査を実施する体制を確保している。」
協力会社との相互支援の記載例
「同一産業集積地域内の協力会社3社(B社、C社、D社)との間で、災害時相互支援協定を締結した。自社が被災し生産不能となった場合、B社において主力製品Aの代替生産が可能であり、月産能力の30%相当を確保できる。また、C社から熟練技能者2名の応援派遣を受けることが可能であり、自社設備の復旧作業を加速できる。相互に年1回の合同訓練を実施し、実効性を確認している。」
よくある落とし穴と対策
技能マトリックスの形骸化:
一度作成して満足し、定期的な更新を怠ると、実態と乖離した使えない資料となります。人事異動、退職、新規採用の都度更新し、常に最新状態を維持することが重要です。
安否確認訓練の未実施:
システムを導入しただけで訓練を実施しないと、実際の災害時に機能しません。年2回以上の抜き打ち訓練を継続し、「休日に訓練メールが来ても無視する」といった形骸化を防ぐため、訓練の重要性を周知します。
協力会社との口約束:
災害時の相互支援について口頭で合意しただけでは、実際の災害時に機能しない可能性があります。正式な協定書を締結し、定期的な合同訓練で実効性を確認することが不可欠です。
労働法規の軽視:
「緊急時だから」という理由で労働法規を無視した運用を行うと、後日労働基準監督署からの是正勧告や従業員との労使紛争に発展するリスクがあります。災害時も法令遵守を基本とします。
5分でできるチェックリスト
- 重要業務について技能マトリックスを作成し、キーパーソン依存度を把握済み
- 安否確認システムを導入し、全従業員の登録と年2回以上の訓練実施体制を確立済み
- 従業員の居住地を地図上にプロットし、工場からの距離別に分類済み
- 工場近隣居住者(5km以内)を初動対応要員として指定し、緊急連絡先を整備済み
- 協力会社との災害時相互支援について、具体的な協力内容を文書化済み
- 災害時の出社基準・自宅待機基準が就業規則や防災規定で明確化済み
今週のアクション
重要業務の技能マトリックス作成:
第4回のBIA結果で特定した重要業務上位5項目について、必要技能と各従業員の習熟度を一覧表にした技能マトリックスを作成してください。レベル5(指導者)が1名のみの技能については、早急な育成計画を策定し、2年以内の代替要員確保を目標としてください。
安否確認システムの導入または訓練実施:
安否確認システムが未導入の場合は、今週中に複数のサービスを比較検討し、1ヶ月以内の導入を決定してください。既に導入済みの場合は、今週中に抜き打ち訓練を実施し、回答率と回答所要時間を測定してください。回答率が80%未満の場合は、未回答者への個別指導と連絡先情報の更新を実施してください。
従業員居住地の地理的分析:
全従業員の居住地(市区町村レベル)と主要通勤手段を一覧表にまとめ、工場からの距離別(5km以内、5-15km、15km以上)に分類してください。5km以内の従業員を初動対応要員候補としてリストアップし、本人の同意を得た上で正式に指定してください。
協力会社との災害時支援協議:
日常的に取引のある協力会社2-3社に対し、災害時の相互支援について協議を申し入れてください。代替生産の可能性、技能者の相互派遣、設備・治工具の貸与など、具体的な協力内容を検討し、合意事項を文書化してください。可能であれば、正式な相互支援協定の締結を目指してください。
次回第7回では「【設備・インフラ編】生産設備の保護と代替生産体制の構築」と題し、製造業の心臓部である生産設備の災害対策、重要設備の耐震化・水害対策と投資判断基準、予備品・治工具の戦略的備蓄、代替生産拠点の確保戦略、電力・ガス・用水などユーティリティの冗長化設計について詳しく解説いたします。限られた予算で最大の効果を得るための優先順位付け手法と、補助金を活用した設備投資計画の立案方法を、実践的な事例とともに提供いたします。